2009年12月1日火曜日

哀しいし恐ろしいから考える

最近、猟奇的な事件のニュースが多いです。

しかもまだ犯人が捕まらなかったり。

「そんな時代だから」で片づけられない、哀しい気分になります。



最近で個人的に一番恐ろしかったは、去年の「秋葉原通り魔事件」。

一時期東京に住んでいたこともあって、より身近に感じました。

もしあの時あそこに居たのが私だったら。と。



『通り魔』
そんな単語すら、存在しないほうが良いに決まってる。

たまたまそこに居ただけで、突然殺されるなんて。







犯人は、「誰でもよかった」と言う。
「死刑になりたかった」と言う。
「生活に疲れた」と言う。
「世の中が嫌になった」と言う。


犯人は、生まれたときから犯人になる要素があっただろうか。
殺された人は、犯人に殺されるために生まれてきたのだろうか。

その両親は「殺人犯になるように」願って育てたわけじゃないし
「殺人犯に殺されるように」慈しんできたわけじゃない。


色々が溢れている世の中なのに、何かが圧倒的に不足している。

連日テレビから聞こえるのは、寂しい!という叫びだ。






“無差別殺人犯とそれ以外の人の間に存在する隔たり。
有力な手懸りは、まさに良き友人の有無だろう。

犯人はなぜ、他者の所為にするか。
他者と"関わっていない"からではないのか。


全員がひとりだけ、正直な友人を持っていたら嬉しい。
伴侶や恋人は、何より最高の友人であればいい。


全員がうまくすれば、昨日のような事は未然に防げた筈だと思う私はお嬢ちゃんか?”

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